急性心筋梗塞

　　　　尾池和夫

　退院　七月四日（土）

　部屋のすみに葉子が持ってきたアストロメリアが、たくさんの花を付けて元気に咲
きそろっている。武田病院のこの狭い部屋とも明日はお別れである。
　四時に目が覚めて、昨日政次さんにもらったパンフレットを丁寧に読んだ。心筋梗
塞に関して、あるいは心臓について、いろんな本を読んできたが、彼女のパンフレッ
トが最もよくできている。表現のしかたが具体的でしかも詳しい。わたしにとって最
も説得力のある内容である。
　有能な看護婦さんとして、彼女はきっと活躍するようになるだろう。そのための実
習の相手として、わたしは少し特殊な患者であったかもしれないが、少しでも役に立
つことができたらうれしい。
　朝のニュースでは、猛暑でイタリアのどこかでは四八度、ギリシャのアテネでは四
四度に達したという。シチリア島でも熱波で山火事が発生している。西日本でも暑い
日が続いている。猛暑の街の中に、今日は五週間ぶりに出ていくのだ。
　体重測定の日である。急いで行って測ったら、六六・〇キロであった。また増える
傾向だろうか。
　八時四〇分、中島さんが薬を渡してくれる。
「今日の朝は、いい朝ですね。はい、朝のお薬を」
「はい」
　まだ目が覚めきってないから、気の利いた挨拶もできずに、お世話になったことに
気持ちで感謝している。
　九時一五分、薬局の方が薬の追加を届けてくれる。
「ジゴシンなどが、この袋では六日だけ夕方飲むようになってるのは、どうしてでし
ょう？」
　と疑問点を確認すると、
「あ、まちがいですね」
　と書き替えてくれた。
　葉子が来て荷造りをしてくれる。かがみこむ仕事も、重い物を持つ仕事も、わたし
には、できなくなっている。妻に荷物を持たせて手ぶらで並んで歩くことが、わたし
にできるだろうかと不安になる。
　政次さんが休日にもかかわらず制服に着替えて、わたしの退院を見届けに来てくれ
た。
　葉子が事務へ支払いに行ってくれた後に、白坂先生がＭＲのフィルムを持って来て
下さった。いくつかの点に関して補足説明をして下さる。
「身体障害者の手帳が、交付されるかどうかですが、急性の疾患は直る場合があり、
すぐには認定しないというのが役所の立場です。三か月後の検査で、証明が書ける可
能性があります。市役所から書類をもらってきて申請します」
「退院して最初の外来受診は、いつ来てもいいので、予約はなしです。今持っている
薬があるうちに一度来て下さい。最初の受診のあと、次を決めます。また、具合の悪
いときには二四時間体制ですから、いつでも来て下さい」
「三か月後の検査は、九月の初めごろ、仕事の都合などを考えて、予定して下さい」
「ヒゲはどうします？」
　と白坂先生が聞く。五週間で約一センチになった。
「そうだ。田巻先生に、ヒゲの手入れの仕方を聞こうと思っていたのだ」
「今度、外来で来て、聞いて下さい」
「どうぞ、よろしくお伝え下さい」
　葉子も事務の用事をすませて帰ってきて挨拶をする。
「本当に、お世話になりました。今後ともよろしくお願いします」
「お大事に」
　京子も迎えに来てくれた。京子は政次さんと初めて会う。わたしは京子が持ってき
たパンの袋だけをぶら下げて部屋を出た。たくさんの荷物を政次さんが車椅子に乗せ
て運んでくれる。看護婦さんが仕事用のワゴンを明けて貸してくれる。
　ナースステーションに入って婦長さんと居合わせた看護婦さんたちに挨拶する。
「どうもお世話になりました。また、いや、また入院はしたくないですが、また遊び
には来たいですね」
　と、こだわりのある挨拶になってしまったが、お世話になったお礼を言って下へ降
りた。
　二階の集中治療室の入り口で、インターフォンを押して、
「六月一日からお世話になった尾池です。今、退院するので、そのご挨拶に来ました」
　二人の看護婦さんが出てきて、わたしのヒゲを伸ばした顔を見る。
「尾池さんだ。おめでとうございます」
「ほかのものにも、伝えておきます」
「ありがとうございました。もうここには入りたくはないですが」
　と、やはりこだわりのある挨拶になってしまった。
　土曜日の外来の待合室はとくに人が多い。たくさんの目を意識しながら玄関に出て
、タクシーに葉子たちが荷物を積んでくれる。運転手さんも手伝ってくれている。そ
の間、歩道に立って、ぼーっとして人々を見ていると、勤務明けの中島さんが髪を長
くなびかせて、かっこよく自転車に乗ろうとしているのが目にとまった。走り寄りた
いのをぐっと抑えて、近くへ歩いて行って挨拶をした。
　京都の街をタクシーが走る。いつもの光景を見ているはずだが、目に入ってくる物
が、すべて珍しい。
「外国の街を走っているみたいだ」
　と、葉子に向かって、つぶやいた。
　家に到着して、一階で血圧を測った。一〇三と六六、脈拍は六〇だった。しばらく
休んで二階へゆっくり上がって血圧を測ると、一〇四と六二、脈拍は六七だった。葉
子と京子が味付けした祖谷そーめんを食べ、寝室のベッドで昼寝をした。静かだ。多
くの患者が命を預けて寝ている病院の喧噪が、うそのようだ。
　二時間ほど寝て、すっきりと目が覚めた。やはり生きていてよかった。葉子たちの
手料理を食べて、体に慣れたベッドに、また寝ることができてよかった。
　多くの人々のおかげで、生きているのだという実感がまた湧いてきた。お世話にな
った方々に感謝しながら、今、この日記を仕上げている。