急性心筋梗塞

　　　　尾池和夫

　キリンの血圧　六月二八日（日）

　月曜日に入院して四回目の日曜日を迎えた。つまり丸四週間たった。日曜日の朝は
静かに明ける。海の光景をＮＨＫテレビが放映している。朝は血圧が低い。白坂先生
がキリンの血圧の話をしていたが、魚の血圧を測った人はいるのだろうか、と考えな
がら海中の光景を見る。
　本を見ると動物の血圧の例が出ていた。Lindsay 
他（1973）の報告によると、チンパンジーの血圧はヒトに近く、収縮期血圧が一三六
、拡張期血圧が八〇である。キリンは一六〇と一〇七で、やはり高い。ネコは血圧が
高いので有名だが、一七一と一二三である。冷血動物のトカゲは一四と一〇、魚のデ
ータもあって、ニジマスが四〇と三二だという。
　テレビでは、四国八十八か所巡りの遍路を紹介している。年間一〇万人が参加する
。車を使う人が圧倒的に多いが、最近は歩く人も増えてきた。番組に登場するお遍路
さんは萩原健二さんである。
　七時すぎのニュースで、トルコでマグニチュード六・三の中規模地震があり、ビル
が崩れて一〇〇人以上の死者が出ている。今、この病院にいて震度六以上の揺れがあ
ったらどうしようかと考える。明日のカテーテル検査の最中だけは、大地震が起こっ
てほしくないと祈る。
　五〇年前の福井地震の被害写真も、この数日、繰り返し放映されている。民家が全
壊した様子が生々しく映っている。
　宮下さんが検温に来る。丁寧な人で、彼女の仕事を見ていると看護婦さんの実行す
る仕事の内容が一通りわかる。
「お変わりはないですか？」
　という質問から始まり、血圧の測定、大便と尿の出方、食事、動悸、息苦しさなど
を確かめ、体温を測りながら脈を診る。両足を診て一通りの仕事が終わる。
　午前中は日記の校正をして過ごす。昼の食事の終わったところへ京子が現れてサン
ドウィッチを食べる。わたしにもすすめてくれるが、運動不足で食欲があまりない。
　ＮＨＫの、のど自慢を久しぶりに見る。岩手県の一関市からである。京子によると
、当日の出演者の数を減らして、いろいろの楽しみが増えたそうだ。
　昼寝をしていると乾さんが見舞いに来る。メールを何回も送ってきてくれたのに返
事ができないので、昨夜、電話して事情を説明したのが、見舞いを請求したみたいに
なったかもしれず、すこし後悔するが、久しぶりに彼女の顔を見ることができたので
うれしい。三月までわたしの秘書をしていた人だが、今は、さる医療法人の理事長秘
書である。
　冨田さんが見舞いに来た。
「五月には、ぼくのパーティーで三次会まで付き合わせて、責任を感じる」
　という。まさかそのために、わたしがここにいるわけでもない。午後は、ほとんど
おしゃべりで過ごした。
　助手さんが棚卸しで部屋の中の物品を確認する。ついでにミニバラの切り花を持っ
ていってもらうことにした。この前から挿し木にしたいというので、早くした方が付
きがいいと思っていた。わたしの部屋には花があふれて、いろんな匂いがしているそ
うだが、わたしの鼻はすっかり感じなくなってしまった。
　夕方、運動不足の解消と思って屋上へ上がってみると雨が降っている。あまり運動
にならないが、外の空気を吸って、多少歩きまわってみる。
「明日の朝、また採血があります」
　神原さんが告げる。左腕を見ると、すっかり白くなって採血の跡がなくなっている
のに、と思わず腕をさすっている。
　二一時前、高村多恵子さんが来る。
「これは安定剤のセルシン。寝る前に飲んで下さい」
「どうしても飲まなければならないわけではないでしょう？」
「まあね、眠ればいい」
「ぼくは横になったらすぐ寝つくから」
「パソコンを買おうと思って」
「え？」
「だって面白そうだから。弟が持っていてメールをときどき使わせてもらう」
「それなら一緒に使えば」
「アメリカにいる兄にメールを送ったり」
「ぼくにもぜひ送って下さい」
「うん」
「検査の結果で、いつ退院するかが決まるから」
「明日は、がんばってね」
「血管が狭くなってなければいいけどね」
「ときどきいるよ。狭くなる人が」
「でも、一か月後では、めったにないそうだよ」
　安定剤を飲むかどうか考えながら、テレビ番組の演歌を聞いていると、すぐ眠くな
ってきた。