急性心筋梗塞

　　　　尾池和夫

　体重測定　六月二七日（土）

　リヨンで行われたサッカーのワールドカップ、対ジャマイカ戦は、二対一で日本は
破れた。土曜日の朝は毎週、採尿のカップが来ていたけれども、今日はもうなかった。
　七時半、
「本日は体重測定の日です。歩ける方は詰め所の前まで来て下さい」
　放送があり、ぞろぞろとみな集まっていく。わたしは減量を期待して行くのだが、
体重が減ったことを嘆いている人もいるということが、並んで順番を待っているとわ
かる。わたしの前に並んだ隣の部屋の方も、
「また減ってしもうた」
　と嘆いている。
　わたしの体重は六六・二キロ、昨日は六五・八キロだったが、パジャマを着てだか
ら、要するに六六キロ前後の攻防である。この場合の六と五の数字の印象はかなりち
がう。
　一キロの体脂肪を減らすためには、ほぼ七〇〇〇キロカロリーのエネルギー消費が
必要である。体重六〇キロの成人男子で、硬式テニスなら一三時間、自転車なら二四
時間、徒歩なら三七時間の運動量が必要ということになるそうだ。
　運動と食事の内容を継続的に調整しないと減量は無理だろう。せっかく入院中に四
キロほど減ったのだから、これを守ってさらにスリム化をはからなければと思ってい
る。
　一日のうち運動の時間帯はいつがいいのだろうか。よく朝早めに出勤するとき犬を
連れて散歩する人やジョギングの人に出会う。朝、起床直後は交感神経の働きが高ま
っていて、低血圧型の人でなければ、一日の中で一番血圧も高く脈拍も早い。このと
き、心筋へ血流を送る冠動脈が緊張していて、冠血流が低下している。血液も固まり
やすくなっている。だから運動は昼食後か夕方がよいのだといわれる。
　通勤の帰り道に、せいぜい歩いて帰ることをこれから考えようと思う。ただし荷物
を持たないようにしなければならない。いつも大きなカバンに書類を入れて、一見し
て大学勤めとわかると家族に言われている。
　また、心臓病の人は力の強い大型犬を連れて散歩するのはよくないそうだ。急に犬
が走り出したときには綱を離すしか方法がない。
　朝食後三〇分ほどして薬の準備をしてないことに気がついた。あぶなく忘れるとこ
ろだった。ついでに薬の写真を撮った。
　白坂先生が様子を見に来た。
「変わったことはないですか」
「はい」
「それでは、予定通り月曜日に検査をしましょう」
「退院は早ければ火曜日あたりですか」
「まあ水曜日でしょう。何かあればさらに延びます」
「はい」
　ＭＲＩの写真を見たいこと、七月一日以後の診断書のことなどを頼んだ。シーツの
交換に来た女性たちがわたしの部屋の花がきれいだという。
「ヒゲの尾池さんには似合わない」
「ミニバラを挿し木にしたいから枯れても置いといてね」
　一一時に看護婦さんが来る。
「検温などを」
　とても丁寧な看護婦さんである。
「それでは、またゆっくり休んでいて下さい」
　と言って去っていった。
　心臓病の重症度分類というのが本に出ていた。ニューヨーク心臓協会の心機能分類
が、自覚症状から見たときの重症度の目安としてよく使われるという。分類は一度か
ら四度までの四段階である。
　一度は、心臓病を持っているが、健康な人と変わらない。プロのスポーツ選手は別
として、激しい運動を含む普通の生活ができる。
　二度は、安静時には症状がなく、階段を急いで上がったりすると息切れ、動悸、狭
心痛などの症状が出る。重労働はできない。
　三度は、安静時には症状がないが、日常の軽い労作ができない。
　四度は、安静にしていても自覚症状がある。心臓移植手術を考える場合もある。　
わたしの場合は、薬を飲んで一度の状態になっているのだが、薬を止めたらどうなる
かはわからないし、自分の心臓を使って、これを確かめる実験をしようとも思わない。
　昼食後、葉子がまた花瓶を一つ買ってきてくれた。毎日花瓶が増えているように思
う。
「部屋に花がいっぱいあって、いいでしょう」
　と言いながら花をアレンジしてくれる。
　良枝さんから花籠が届いた。だれから聞いて、わたしの入院を知っているのかがわ
からない。黒磯くんが見舞いに来た。さくらんぼと花を持ってきた。葉子の母上が美
貴ちゃんと一緒に来た。北田奈緒子さんが元気な顔を見せてくれた。
「祖父も心筋梗塞で長い間入院してました。何か月もかかってた」
　安田さんと富井さんが来て、元気そうだからまた仕事が頼めると確認する。安田さ
んの知り合いもひどい心筋梗塞を起こした。富井さんが、
「やっぱり部長職がこたえてる。自分がそれを認めたくないから」
　と分析してくれる。
「ストレスで血管の壁がはがれて、ぱっと詰まったのよ。だからあとの掃除が楽だっ
たと、お医者さんが言ってた」
　と葉子が解説する。
　安田さんは俳句結社「氷室」の編集長、富井さんは副編集長である。北田さんにも
以前から俳句をやるようすすめている。ちょうどよい機会で紹介した。北田さんが、
わたしが「氷室」に連載しているエッセイを本にしたいという出版社があるという情
報を伝え聞いて持ってきたが、どこの出版社かはわからない。安田さんも喜んでくれ
る。
　お見舞いの客が帰って、母上たちと話しながら、美貴ちゃんの持ってきてくれたア
ンズを食べる。店で買うのとちがって、ほんとうにおいしい。
　病室の小物入れの引き出しには、母上が送ってくれた善通寺のお守りが入っている
。母上は四国八十八か所詣りを何回も繰り返している。屏風浦総本山善通寺は、わた
しの干支である辰歳総本山であり、弘法大師の御誕生所であるという。
「弘法大師は、今でも生きておられるからね」
　と母が説明する。
　看護婦さんが覗いて、
「パーティーですか」
　という。たしかにパーティーの雰囲気になってきた。部屋の中に花がいっぱいにな
り、人がいっぱいになった一日だった。みなさんに見舞ってもらって、わたしは本当
に幸せである。