急性心筋梗塞
尾池和夫
大雨 六月二一日（日） 六時のニュースは、サッカーのワールドカップから始まる。日本はクロアチアに一 対〇で敗れた。次はジャマイカ戦である。決勝トーナメントに出る可能性は遠くなっ た。観戦する人たちの熱気がすごい。先週も感じたが、わたしはとてもこのような熱 気の雰囲気は、もう味わえない。 テレビを見ながら、気がつくとつい右手がたばこを探す動作をしている。本多勝一 さんの経験を真似して、昆布を二センチ角に切ったものを用意している。それをかじ って気を紛らせるのである。 八時四〇分、豊岡さんが来る。 「薬です。かわったことはないですか」 「べつにありません」 「昨日は、リハビリどうでした」 「このあたりに、みが入ってる」 と太股をさすって見せる。ノートパソコンを見つけて、 「お仕事ですか」 「ここでは仕事はしないようにしてる」 「でも根を詰めてやらないように」 「はい」 葉子に電話して、小型のニッパーを持ってくるよう頼んだ。プラモデルを作る準備 である。 一一時すぎ、葉子がサンドイッチを持参して来て、一緒に昼食を摂る。食事のあと 、葉子はパソコンで編集作業をし、わたしはテレビでオートバイのレースを見ている。 「こんな息詰まるようなレースでも、割合に冷静に見ているよ」 というと、葉子は、 「和夫はね、恋愛ものなどを見ると、のめり込んでその気になって見るから、これか らは、だめなのよ」 と警告する。 山田くんが九州からの帰りに京都駅から直接来てくれた。 「みなさんに正確な情報を伝えておいて下さい」 と頼む。わたしの病状が、いろいろの形で伝えられているようだ。 真理ちゃんが来る。 「花を持ってきたよ」 「この前の花は結構地味で、葬式の花みたいだった」 電話で頼む花籠は、なかなかむつかしいと思う。 宇都宮のおばさんが見舞いに来てくれた。小柄なおばさんが雨の中をわざわざ来て くれたのが、申し訳ないような、ありがたいような。 「おばさんは、いくつになられましたか？」 「今度の八月で、九〇歳ですよ」 すたすたと元気に歩くおばさんに、 「わたしより、早う逝ったら、あきまへん」 と説教されてしまった。 メロンやお菓子が増えてきた。なんで病気見舞いにはメロンを持っていくのか、不 思議な気がする。 中島さんが血圧を測る。 「いくらですか」 「一一四の七四です」 「ちょうどいい」 「栄養指導も終わったけど、何か質問なり、わからないことがあれば」 「栄養素でも、コレステロールでも、なんでも一日あたりで考えるのは、どうしてで しょうか。ビタミンは壊れるし、蓄積するものは一度に摂ったらだめでしょうけど」 「例えば、コレステロールは、今日摂りすぎたら明日は減らすとか」 「さあ、どうして一日あたりでしょうかねえ」 これは宿題ということになった。 大雨の中を京子が来た。靴の中が濡れている。 「わたしから、と言いたいところだけど、自宅へ渡辺さんがバラを届けてくれたの」 と言いながら花束を持ってきてれた。今日は父の日である。 葉子が伊勢丹で弁当を二人分買って来た。薄味の弁当を見つけて、愛用するように なった。おこわがおいしい。 「いろいろ持ち込んでると、いいのかしらと、気になる」 わたしは、まわりの小さな社会のルールとか、そこの人の気持ちとか、いろんなこ とを気にする性格である。 「食事のあと、捨ててある残飯を見るとわかるよ。病院の食事をほとんど食べてない 人が、たくさんいる。すしやら何やら、いろいろの物が捨ててある」 葉子は、わたしが納得するような証拠をあげて説明する。それを聞いて、わたしも 、ようやく持ち込みの食料をカロリーなどを計算しながら、安心しておいしく食べる ことになるのである。 食後の話題が、すごい。 「一命を救ってもらったのだから」 「心筋梗塞で、よかったかもしれん」 「これで、もし脳梗塞だったら、今ごろねえ」 「左脳やったら、誰が見舞いに来たかもわからんし」 「右脳やったら、口だけ達者で、手も足も動かないしねえ」 「そんな話をして帰ったあと、ぼくは天井を見ながら、いろんなことを考えて」 自宅へ見舞いに来た人に、京子が「一応、命は大丈夫のようです」と言ったら、笑 って聞いていたので、京子が思わず、「いや、ほんとに」と付け加えた、という。そ のことを気にして、何度も報告している。あまり深刻には受け取ってくれてないので は、ということを気にしている。 京子は、テレビのニュースで父の日の話題を伝えているのを見て、 「お父さん見て、こんなのいやねえ」 などと賛成を求めている。画面には、花嫁姿で父親と並ぶ女の子が映っている。確 かに異常だ。 一九時になって、二人が帰るのを階段の所まで見送っていった。 「気をつけて帰ってよ」 梅雨前線の活動が活発で、まだまだ大雨が続きそうだ。