急性心筋梗塞

　　　　尾池和夫

　体重　六月六日（土）

　集中治療室にいたときのくせで、眠る時間がこま切れになる。しかし久しぶり
にぐっすり眠った。
　六時過ぎには起こされて、尿を取り、採血する。
　八時前に体重測定がある。入院して初めて体重を測る。六八・八キロだけれど
も、心電計の送信機をつけているので、
「この分を引いてね」
　と頼む。
　緊急入院する前の二週間ほど、とくに体重が減らなくて困った。ずっと七〇キ
ロを超えたままだった。
「朝食が来ました」
　と放送がある。体重が減っているので、うれしくなって取りに行った。
　八時半ごろ薬を飲む。八時四〇分ごろ脈が二回ほど抜けたあと乱れる。ナース
コールのボタンを押した。
「心電図がうまく取れない」
　と看護婦さんがいう。九時半すぎになって落ち着いた。一〇時、白坂先生が来
られて、
「キガイ収縮にもいろいろあって」
　と説明する。期外収縮と書くのだそうだ。
　期外収縮には心房から出るものと心室から出るものとがある。心房から出るも
のは放置してもよいが、心室から出るものは治療を要するという。心房細動とい
うのがあり、脈拍の打ち方がまったく不規則なものをいう。いろいろの心疾患で
出現することもあり、単独で出現することもある。
　そもそも心筋の収縮は、洞結節から刺激伝導系と呼ばれる電気回路を通じて、
命令が心筋細胞に伝えられて行われるのだそうだ。心筋の収縮命令は、まず心房
の心筋に伝えられ、〇・一二〜〇・二二秒遅れて心室に連絡される。
「今朝、体重を測定したり採尿したり、食事を取りに行ったり」
「とんでもないことです。わたしだったら今は絶対安静にしています」
「わかりました。ここの方たちにも徹底しておいてください」
「基本的には血液検査で判断しています。今はこの部屋から出るのはトイレだけ
です。ほんとはトイレも部屋でしてほしいくらいです」
　血液の中に、壊死を起こした心筋細胞から出る、クレアチン・リン酸酵素とい
う酵素が含まれている。ＣＰＫ（creatine phosphokinase）である。その濃度を測定
するのだが、わたしの場合、この値は、ピークで一万一七九〇だったという。
「この値は、普通は、死者の値です」
　そのような状態だったので、いつ何が起こるかわからないから、ＣＰＫが下が
るまでは安静にして、歩いてはいけないのだという。
　心筋梗塞にともなう危険はいくつかある。まず「重症不整脈」、これは急性心
筋梗塞の死因の四〇パーセントを占める。「急性心不全」、急性心筋梗塞の二〇
〜三〇パーセントに左心不全が見られる。冠血流障害による心筋の壊死または虚
血で起こる。「強い胸部痛不安感」、不安による頻脈が心筋の壊死を増大させる。
「心臓破裂」、急性心筋梗塞の死因の五〜一五パーセントを占める。発作後一週
間以内に発生することが多い。「心原性ショック」、急性心筋梗塞で左室心筋の
四〇パーセント以上が壊死に陥るとショック状態となり、死亡率が八〇〜九五パ
ーセントとなる。
　借りている、木全心一著「狭心症・心筋梗塞が気になる人へ」（東洋出版）の
心筋梗塞の合併症の説明図を見ると、心筋梗塞から分かれた三つのコースがあり、
不整脈コース、心不全コース、心破裂コースの三つで、それぞれの先をたどると
いずれも死亡という所に至る。不整脈コースからは心室頻拍、心室細動から、あ
るいは房室ブロックを経て死亡に、心不全コースからはショックを経て死亡に、
心破裂コースからは、そのまま死亡に、それぞれ至る。
　白坂先生は、この病院が心筋梗塞の治療に関して豊かな経験を持つ病院だとい
うことを説明する。
「そのことをわたしはホームページで見てたので」
　と、武田病院を選んだ理由をいうと、白坂先生は、
「わたしはまだ、この病院のホームページを見ていないのですが」
「そうですか。武田理事長の描かれた絵が出てきますよ」
「この病院にも絵がかけてありますよ」
　検査のために一階へ車椅子に乗せてもらって行く。車椅子は準看護婦の高瀬さ
んが乗せてくれる。
「ねむい」
「学生さんなの」
「うん、朝も夜も仕事で、昼は勉強だから」
　エレベータの鏡に写る自分を見て、ひげが伸びたのが目立つ。老眼が急に進ん
だような気がする。心電図を取る部屋のマークはハートである。それに心電図記
録の波が重なっている。
「ハートが破れてる」
「心臓は何でハートなんだろ」
　心電図を取り、胸のＸ線写真を撮った。
　部屋に帰ってしばらくすると、花屋さんが籠にアレンジした花を届けてきた。
真理ちゃんからの花で、「患者の務めに励まれよ！　愛をこめて」とメッセージ
がついている。
　竹田さんが入ってきて、いきなり英語だ。
「ユニバーシティーの教授だってね」
「教授でも何でも、この部屋に入れば、ただの患者です」
　じっと手を見ると、掌の紅斑が減ってきたように見える。酒もニコチンもかな
り抜けて来たのだろうか。ぼーっとしていると、ときどき無意識に右手がたばこ
を探している。
　とりあえず一か月の病気休暇を申請するために診断書を書いてもらった。事務
長さん宛に郵送してもらうよう葉子に頼んだ。
「中島です。夜勤ですのでよろしくお願いします。変わったことはないですか」
　名乗る看護婦さんが初めて現れた。このように挨拶してくれると患者は実に心
強く、安心感を覚える。今まで出会った看護婦さんは、名前を覚えている人と、
覚えていない人とがある。名前をわざわざ確かめた場合もある。
「今の人、若く見えたけど、きっと経験豊かなベテランだろうね」
「そうね。かっこいい美人ね」
　葉子がわたしの看護婦さん評に、面倒くさそうに付き合ってくれている。