急性心筋梗塞

　　　　尾池和夫

　記録紙　六月四日（木）

　ウサギコース二日目の課題は、自分で上半身を起こして、しばらくそのまま起
きていることである。もちろん、その前後の心電図などを取って比べる。
　村尾さんが準備を始めたが、
「記録紙がなくなったので持ってきます」
　しばらくして、
「記録紙を取り寄せているので、午後に」
　楽しみが午後まで延長されてしまった。地球物理学教室の研究室にいるときに、
もし学生が、記録紙が切れたなどと言ったら、再現性のない地球の現象を記録す
るのには万全の用意をして臨まなければならない、と説教するのだが、ここでは
そんなことを考えてはいけないのだと、自分で自分に言い聞かせている。
　午後になって記録紙が届き、第二段階を実行した結果、これも合格した。よち
よち歩きから人生をやり直しているようなものである。
　村尾さんは百万遍の近くに住んでいるという。コーヒーが好きだというので、
出町柳のカミヤ珈琲店を教えてあげた。店主こだわりのガヨマウンテンのコーヒ
ーは値打ちがある。
　たばこの話になって、
「二年前に五階の一般病棟にいたの。そこに喫煙コーナーがあるの」
「誘惑される話だ。ぼくもたばこが吸いたい」
「その喫煙コーナーにいるのを、よく見かけた人は、やはりしばらくして、また
入院してきて、会った」
　美人の村尾さんには、またぜひ会いたいが、この部屋では会いたくない。
　この日、わたしにとって最大の出来事は、ベッドの上で大便をすることであっ
た。入院以来ずっと出ていないから、月曜日の朝からの分がすでに溜まっている
はずである。点滴をしていて、あまり食べてないこともあるのだろうが、上向き
に寝たままという姿勢で大便はできないと思い込んでいるせいでもあると思う。
とにかく、これも経験の一つだからと思って、やってみることに決心した。葉子
が来ている昼の面会時間に手を貸してもらうことにした。やってみると、案ずる
より産むが易しで、うまく出てくれて、たいへん気持ちがよくなった。
　夜になって、空いていた隣のベッドに男性の患者が入ってきた。あたりかまわ
ず大きな声でしゃべる人である。しかも、薬剤に関して異常に知識を持っていて、
しかもその知識を振り回す人である。看護婦さんに対して繰り返し薬を指定して
は、持ってくるようにと要求する。医師らしい男性の声が、
「薬が好きですか？」
　と聞くと、その患者は、
「好きです」
　とすなおに答えている。
「こうなったのも、やたらと薬を飲んだためかもしれませんよ」
　という次の声には反応がない。
　野仲さんが、ときどきわたしの様子を見に来て、
「ごめんね」
　と、両手を合わせて、気を使ってくれている。
「眠れる？」
「眠れるわけないよ」
「眠剤、持ってこようか？」
「いや、それはいらないけど」
　患者という立場にいると、このような看護婦さんのやさしい心遣いだけで結構
よく眠れるものである。こま切れだけれでも、一応、うとうと眠った。